昭和四十三年三月九日 夜の御理解
例えば、ここにお祭りの時に使う太鼓があります、ね。金箔できれいになった、きれいなだんかがり、太鼓、どんなに立派にがちが立派であっても、もしあの太鼓が破れておったら、いくらたたいても良い音色が出ない。人間も同じ事。どんなに参っても拝んでも、何十年信心しとると言うても、ね、心が破れておったんでは、どんなにたたいても、たたきよるから、なんとか音が出るだろうけれども良い音色が出るはずがない。信心は自分達の心の汚い事やら、また破れておる所やら、こういう所から淋しゅうなったり、腹が立ったり、様々あさましい心が出て来るんだと。それは心の破れから出て来るものだからこそ修繕して行くというか、張り替えて行くというか、いわゆる「信心は日々の改まりが第一」とおっしゃるのはその事である。例えば、如何に親鳥が、又は天地の親神様が氏子が可愛いというて、その氏子を抱き抱えておって下さっていても、例えて言えばニワトリが卵をお腹、この羽の下に暖めていますと卵がかい割れ、ヒヨコになる所が、その中に、例えば腐った卵があったとするか、ね。これは如何に親鳥が暖めても、それはかい割れる事はないのです。どうしてかい割れんのじゃろうか、どうしておかげが受けられんじゃろうか、どうして良い音色が出らんじゃろう、どうして、こん、なら、有難くなれんだろうかという前に、自分自身の心が腐り果てておる事を、一つ知らなきゃいけん。いくら拝んでも参っても有難くなれない。いやそれはね、何か自分の都合の良か時だけは有難くなる。これは本当の有難い事じゃない。おやつをもらった時だけニコニコ笑うのは、これは、あり方は本当のこっちゃない。それと反対の事になっても、心の底から沸いて来る喜びっていうものを求めて行くのが信心。
私は今日、ある方の御霊様の、亡くなられて一年になる御霊様の、ひろ子先生の遠い親戚になられる方なんですけれども、ご依頼を受けてから、今日、手紙【 】心が淋しゅうて淋しゅうてたまらんのです。もう何ゅうどうしたっても淋しい。どうした事だろうかと私は思った。この方はね、大変な事業家、いわゆる金儲けなら名人と言われる様な方だったらしいですね。けれども、その心の破れをね、修繕しようとしたり、自分の心の腐っておる所をきれいにしたりする事に、あまり努めなかった方らしんです。ところが、その娘さんが非常に熱心に信心するから、その娘さんの信心の、例えば顔を立てての様にして、神様がおかげを下さっておる様な感じ、だから自分の力じゃないから淋しゅうて淋しゅうて、御霊さんが淋しゅうて淋しゅうてたまらんていう感じ、自分がね、この世でいくら立派なお家の住んでたって、如何にたくさんのお金の中にうずまっておっても、どんなにこの世ではやり手だ、事業家だというて、仕事が上手に出来ても、あの世ではこちらでの、いわばお互いが生きておる間に徳を積んでおるものしか持って行かれんの。そんなたくさん財産家だから、あの世も何とか金しだいというのがありましょ。ところがこちらの金ではあちらでは通用しない。本当に今日は少年集会で、今晩また集まっておるけれども、僕達の様な、まだその、いわゆる少年少女時代からですね、ほんとに、きれいな美しい人にならせてもらおうという様な願いの基に信心させてもらう、教えをいただかせてもらう、勉強させてもらう。汚い根性があるならその根性をきれいな根性にして行こうと努力する。それが小さい時から努力されるという所に、私は小さい時から信心させて頂きよる者の値打ちがあると思う。どんなに天地の親神様が可愛いと思うて、なら、抱き抱えておって下さっても、次々とかい割れていっても、一つだけかい割れないのがあるなら、もう親神様としてはこんな悲しい思いをなさる事はなかろうと思う。同じ手を入れた氏子が、同じ事をしてあげた氏子が、天地の中に住む人間が皆な神の氏子、世界中の氏子におかげがやってあるこうおっしゃる。世界中の氏子に一応のおかげやってあっても、氏子自体の人間自体の心の中が腐っておったんでは、いかに神様とても、いかんともしかたがない。どうにもしょうがない。腐っておる卵が一つだけ取り残されて、又は二つあるとするなら二つだけ取り残されてかいわれない。かいわれる事ができないだけじゃない。親神様がそれを、せっかくこれだけのおかげをやっておるのに、それを生き生きとした働きの出来ないものであったら、親神様が悲しいまでの事である。神様を悲しませる様な人間になっちゃならん。神様に喜んでもらう人間に、氏子に、成らせて頂くという願いを持って信心をさして頂くもの。どんなに力一杯たたいても、もう一方の、例えば、皮が破れておる太鼓であるとするならば音はしましょう。一生懸命たたくから、けれどもそれは、いや-な音が出るだけで澄んだ様な、何とも言えん良い音色が出るはずがない。まず、自分自身の心が立派に成らせて頂こうという願いの元におかげを頂く。だから、「信心は日々の改まりが第一」、「信心とは本心の玉を磨くものぞや」とおっしゃる。そういう、いわば尊いあの世にも、この世にも残しておき、また、持っても行けれる様なおかげを頂かして頂く為にお互い縁を頂いて信心をさして頂けて、子供ながらも、少年少女ながらも、神様に良い子に成らせて下さい。良い人間に成らせて下さいという様な願いを立てて信心の稽古をするのですよ、ね。どうぞ。